昨年に引き続きお盆を湖畔のキャンプ場で過ごした
今年も色々あったが、カマドウマ君との戦いについて書き残す。それは永遠のような、実際には30分も経っていないのだろうが、しかして歴史に残すべき戦いであった。
「今夜、日付が変わったくらいに帰ります」
カルボナーラをおかずに白米を食らう奇怪な昼食を口に運びながら私はそう言った。
八月某日。山梨県本栖町本栖湖は降り注ぐ太陽光線に照らされ、客足を遠ざけないギリギリの気温を保っていた。
「おう。じゃあその時間まであそこのバンガロー使って寝ていいぞ」
御年70歳、私の父の代から管理人を続けるボスは漬物をぽりぽりと齧りながら
普通に書く。
目が醒めるほどのブルーカラー、ゴリゴリの肉体労働によりぐちゃぐちゃのベチャベチャになった身体にまとわり付いた汗を熱いシャワーでふりほどいて涼しい夜風を浴びながら三ツ矢サイダーの缶をプシュッと鳴らしてくいと呷って「ああこれが俗世間の人類が口にするところの”ととのう”なんだな」と心地よい疲労を噛み締めて、私はくだらない思考を払いのけるために寝ることにした。俺は頭がいいので、お盆最終日の夕方に高速道路を走るなんてバカなことはしない。俺は若く体力があるので、深夜になるのを待ってから家に帰ることにした。
寝泊まりしていた八畳ほどのバンガローと布団の類はすでに返却してまったので、代わりの部屋に寝袋と少量の荷物を持ち込んだ。
問題発生。電気のスイッチが見当たらないのだ。電球に繋がるヒモを引っ張れど電気が点かない。
「まあたかだが数時間寝るだけだしいいか」と思って真剣に探さなかった。後にして思えばこれが最大の判断ミスだった。
歯を磨きながら夜の湖を眺める。どんなに高級なスピーカーでも出せない波の音も聴こえる。ビックリするほど最高だ。
ちょっと帰りたくないかもしれない、などと思いながら歯磨き粉をペッと吐き出して口をゆすぐ。
部屋に戻り、畳の上に布団を敷いて潜り込んで目を閉じる。と言っても、暑いので潜り込ませたのはつま先だけだ。
物音がした。気のせいだろう。
物音がした。気のせいではない。
しかし、ここでの生活は朝に瞼を開けて一番に飛び込んでくるものが顔の横を往来するアルゼンチンチンアリやハエというものだったので、今回もそんな感じだろうし目を開くほどの出来事ではないなと判断する。
「ミシ…」畳を踏みしめる音がした。虫も畳踏みしめるんだなー、と考える。そんなわけないのできっと家鳴りだろう。
「ミシ…」音が近づいてきた。これは明確に家鳴りではない。
この段階で私の頭を支配していたものは「オバケ」の三文字である。アルファベットにするとOBK。
オバケだったらどのみち無理なので、もはや意地で目はひらかない。
手の先に何かが触れた。気のせい気のせい。
二の腕に何かが触れた。私と「何か」の接点は五つ 人間の指の数は、いや気のせい気のせい。
肩に手が置かれた。もう無理。
巨大な虫である。全長10cmほどの虫が、暗闇の中でもハッキリと認識できるカラスの濡れ羽色に輝く立派な脚を携えて私の肩にどしんと、「ちょこん」なんてかわいいものじゃなく「どしん」と乗ってコンニチハしていた。
学名ベンジョコオロギ、通称カマドウマ(竃馬)。
虫の重量を感じたことはあるだろうか。夜中に一人で、確かな重量を伴う巨大なカマドウマを肩に乗せたことはあるだろうか?ピカチュウではなく巨大なカマドウマだったら一ヶ月で打ち切られたこと間違いなしである。
人間は真に驚くと声も出ないらしいが、あの時の私は声が消える境界線上にいたのだろう。「ヴェッッッッッッ」という悲鳴が少量だけ出た。
カマちゃんもビックリしたのだろう、私の肩を踏み台にみょーんと跳び上がり、部屋の奥の方に消えていった。
ここからの私の行動は今考えると相当にキモい。なんと何事もなかったように布団に戻ったのだ。おそらく、人間としての大事な何かが崩壊して正常な判断が不可能だったのだろう。
目を閉じるも眠れるハズがない。しかし意外にも平穏な時間は続いた、1分くらい。
枕元で音がした。もう、気のせいじゃないことは知っている。ガバッと起きてペンライトでえいやっと照らす。
いた。
カマちゃんがありのままの姿で、懸命に畳の上を歩いていた。
が、ここであることに気づく。カマちゃんの向かう先で、押入れが巨大な口を開けて待ち構えているではないか。
頑張れ!カマちゃん頑張れ!!気分はさながらスポーツ観戦である。ライブ感しかない。
行け!!!もう少し!!!あとちょっと!!!!頑張れ!!!
入った!!!!ゴーーーーーーーーール!!!!うおおおおおおお!!!!!
バン!!!!と勢いよく襖を閉じる。やったーーー!!!!!
安心して布団に潜る。今度は手足もスッポリと。暑いが仕方ない、背に腹は変えられない。
ときおり襖をカリカリと引っ掻く最悪な音がするが、あくびがようやく出てきたので勝利は近い。
あと5分ほどで眠れるな、というその時。
気配を感じた、感じてしまった。
身体を起こしてライトで部屋を照らし見る。部屋の隅にある鏡台、その鏡の裏が怪しい。
うっかり踏んだら泣いちゃうので足元に用心しながら近付き、上から覗き込む。
いた。
イッパイいた。
泣きたい。
虫は好きだ。人間より虫の方が好きかもしれないくらいには虫のこと好きだ。
さすがに、あれは、無理。
カマちゃんベンちゃんの楽園を目にした私はもう全てを諦めて荷物をまとめることにした。入ってきたのは私だ。出ていくべきは私だ。
完全に死んだ表情筋を顔面にぶら下げ、愛車に荷物を運び込んでドアを施錠する。私と一緒に車内に乗り込んだハエを一撃で仕留める。死ね虫ケラが。
もう寝ることは諦めていたが、このあと車を運転することを考えると身体は休めねばならない。目を閉じて時が経つのを待つ。幸い、根気には自信がある
一時間が経ったころ、時計を確認。17分しか経ってねえ。ボケ。
道路交通情報を確認。いける。
そう判断し、車のエンジンを掛けた。深夜の樹海にビビってた頃が懐かしい。全然怖くねえもん。
が、一応『全力少年』を大音量で流した。Bigbangのボーカルがライブで歌ってるやつ。あの頃の僕はきっと全力で少年だった。
家に到着したのは草木も眠たい深夜一時過ぎであった。そんな時間にも関わらずお風呂を沸かして出迎えてくれたママドウマには感謝が尽きない。
湯上りさっぱり、フカフカの布団に潜り込む。これよ、この安心感よ。
目を閉じたそのとき、私は気付いた。たまらなくウルサイ。
バグはどうやら頭を蝕んだらしい。
朝食のパンにバターを塗っている時、本を読んでいる時。
ふとした瞬間に鼓膜が羽音を捉える。網膜が影を捕まえる。腕が重量を感知する。
遊園地に行った日の布団は魔法の絨毯のように飛び回るが、それとは影響の正負が違う。
バグは蝶のように気まぐれに飛来し、蜂のようにバチバチと私の五感を揺らす。
バグは鳴り止まない。